純農村の狛江で、大正時代に唯一箇所、町めいてきたのが銀行町であった。今、世田谷通りと狛江通りとがぶつかる狛江三叉路の辺りだ。今の世田谷通りはまだできていなかったが、ほぼ重なる青山方面からの旧道が、ここで二つに分かれ、北へ行くのは調布方面に向かう旧道、南へ行くのは猪方と和泉の境界を通り登戸の渡しに続く旧大山道であった。当時から狛江にあっては幹線道路の三つ辻であったといってよい。
 明治三十三年、まず旭(あさひ)貯金銀行の狛江支店が設立されたのは、その三つ辻の栄泉堂の今ある辺りという。明治四十一年にここが勧業貯蓄銀行の本店となっている。当時、専務取締役は、岩戸の元名主須田林之輔さんで、株主にも狛江の地主たちの名がみえる。養蚕などで稼いだ地元の小口資金を預金させて、株主などの企業家に貸し付けたり、親銀行に託したりしたらしい。銀行町の名はここに始まる。
 ところがこの銀行、大正三年の大正貯蔵銀行・旭貯金銀行の倒産事件に巻き込まれて倒産し、後の数年は残務整理にすぎない。「おばあさんが(通帳を)持っていったけどつぶれちゃって一銭も返ってこなかった」とか、「(貯金していた)村の和尚さんがオッタマげてハダシで表に飛び出したとヨー」とかいう話が伝わる。銀行の土蔵はしばらくあった。また現在泉龍寺で雨ざらしになっている大きな古金庫が元この銀行のだったという。
 料理屋の泉屋は、大正の初めには、馬方や肥引き相手の一膳飯屋であったが、飲み屋に発展していった。銀行の付近に、鳥屋、床屋、紺屋、大工などが引越してきて仕事を始めた。関東大震災後、そば屋兼飲み屋の高麗屋(こまや)が開店し、次いで浅間亭というカフェもできた。浅間亭の隣には、頂上に富士浅間神社が祀(まつ)られていた塚が、くずされて半分残っていた。銀行は消えてしまったが、震災後の銀行町は急速な隆盛へと向かっていたのである。