昭和の初め頃、猪方の小川豊作さんが銀行町に東陽倶楽部という芝居小屋を設けた。旅役者の田舎芝居、義太夫、浪花節、喜劇、奇術、催眠術、大歌舞伎に映画まで、入れ替わり月に二から三回出し物がかかった。泉屋本店の南側で、大山道の旧本通りに面し、一階は板の間に蓆(むしろ)を敷き、二階観覧席もあった。三百人くらいは入れたという人もある。入場料は大人三十銭、子供は十五銭。「素人芝居みたいなもの」と相手にしない向きもあったが、狛江の内外から結構見物客が集まった。
 昭和二年に拡張した大通りができた頃、料理屋の泉家、そば屋の高麗屋のほか寿司惣、おでん屋のタカちゃん(スケロク)、カフェの長寿軒と松木屋(もと浅間亭)などがあった。カフェの女給さん(ウェートレス)は和服に白い大きなエプロンをかけていて、コーヒーが十銭。二子や調布から芸者を呼ぶ宴は泉家ぐらいだったが、たいてい奥や二階に座敷もあり、「(布田の)五宿よりこっちの方がよくなっちゃったんですよ。固まってあの辺に、お酌さんが二十人以上いたんだからね」ともいう。客筋は狛江だけでなく砧、喜多見、入間、深大寺、登戸などからも来た。夕方になるとおねえさんたちがきれいに着飾って、谷田部稲荷には彼女たちのお賓銭が相当あがったとか。当時農家で嫁不足だったから、銀行町にかよってやがて所帯を持った人は大勢あり、村の活力をたかめた。土地の人との縁結びが、この盛り場の特色といえようか。
 昭和八、九年隣接地に地元農家の出荷する青物市場が開設され、八百屋が三軒茶屋方面からも仕入れにくるようになった。これを当てこんで狛江食堂や丸勝食堂ができ、はやった。穀屋(のちの米屋)、栄泉堂(菓子)、丸甚(呉服)、栄喜屋(下駄)、山木屋(紺屋)、鳥政(鳥肉)、足袋屋、写真屋、種屋、自転車屋、床屋など立ち並び、商店といえばまず銀行町なのだった。親和会仲間で始めた無尽が、銀行のない銀行町で当時重要な金融であった。無尽の名残りは今も続いているらしい。