明治・大正から昭和の初め頃まで、狛江でも養蚕が盛んだった。春と秋、お蚕様の時期になると、どこの家でも人の寝起きする一部屋だけを残して畳を上げ、棚を作り、ところ狭しとばかりに蚕を飼った。
 卵は種紙といって、縦三十センチ、横二十センチくらいの厚紙に卵が貼りつけてあるのを種屋から買ってきた。調布の内野さん、岩戸の久野さん、福生の高崎さんが特に取り引きが多かった。
 蚕も孵化(ふか)してすぐにはからだも小さく食も細く、大きなものでは食べられないから刈り取ってきた桑の葉を桑切り包丁で細かく刻んで与える。大きくなるにつれ、その面倒はなくなるが食べる量が増える。特に繭(まゆ)を結ぶ頃が近づくと食べる量も多くなり、カサカサと音を立てながら食べるので、鎌を片手に竹籠(かご)を背負い、日に何回も桑摘みにいく。特に雨の降りそうなときなど、濡れた葉は食べさせられないから遠くまで行ってはたくさん背負ってくる。まさに重労働である。また思わぬ寒さがやってくると、大きな火鉢に真っ赤な炭火を入れ部屋中を暖める。そうして育てた蚕は春は四十五日、秋は三十五日で繭を結び売られていく。
 繭は、小金井の仲買人が日を決めて買いに来る。最盛期には猪方の笹本さんの家にも仲買人がやってきてたくさんの繭を買い取っていった。米麦を主に作っていた狛江の人たちにとって、蚕は大きな現金収入だった。日ごろ見たこともない当時の百円札がこのときばかりは家中で拝めたという話がある。
 しかし、昭和初期の不景気から繭の値は下がり、関東大震災以後の東京の発展の中で、野菜供給地域に変わっていったことなどから、養蚕農家はだんだん減り、戦時下の昭和十八年には完全になくなった。その裏にはこんな話が残っている。昭和になってからはキャベツやキュウリなど野菜を作る農家が多くなり、やたらに消毒するので隣り合った畑の桑の葉は使い物にならず、ついに養蚕をやめたという。