一の橋の交差点に立つ文政六年(一八二三)の「石橋供養塔」には「東六郷江戸道」「西登戸府中道」「南家村道」「北ほりの内高井戸道」という道しるべが刻まれている。旅人は仏の像を配したこの供養塔に合掌したあと、自分の行路を確認したことであろう。
 道しるべを刻んだ石塔は狛江市内に十基を数える。その多くは三叉路や十字路に立っている。こうした石に刻まれている、この道の行く手となるいろいろな地名をたどると、狛江の村を通過した人たちが目指したのがどこかということがわかる。またこうした道しるべの立つところをつなぐことによって、狛江の古い道を推定することも可能となる。
 狛江を過ぎる主要な道には次の三つがあった。①江戸-世田谷-喜多見-岩戸一の橋(または駒井)-和泉-渡船場-登戸、②六郷-大蔵-喜多見-岩戸一の橋-和泉-国領(または矢ケ崎)、③高井戸-祖師谷-入間-覚東-和泉-田中橋-渡船場-登戸。
 ①は狛江を東から南西に横切るもので、江戸道、大山道、登戸道ともいわれた。昭和十年代までは東京方面へ下肥を汲みにいく車で早暁からにぎわった。
 ②は品川道、六郷道、府中道、筏道とも呼ばれた。狛江を東から北西へよぎる道である。大正頃までは、多摩川を六郷まで筏(いかだ)を運んだ筏乗りの、家路を急ぐ蓑笠(みのがさ)姿がよく見られたという。
 ③は狛江を南北に縦断する道である。高井戸道、鎌倉道とも呼ばれた。かつて田中橋の南の用水に鎌倉橋という橋がかかっていたが、鎌倉道の伝承に基づいて名付けられたものであろう。狛江に入る少し手前の調布市入間町には、「是より泉むら子安地蔵尊二十五丁」とある百万遍供養塔(天明元年=一七八一)と「西 いづみ村ぢぞう道」とある庚申塔(文化九年=一八一二)が残る。泉龍寺の子育地蔵に参詣する人が少なくなかったことを語っている。