第一次世界大戦のとき、中国の青島(チンタオ)で日本軍の捕虜となったドイツ兵は四千人を超した。大正五年(一九一六)、日本に移送され、東京、大阪、松山など十二カ所に設けられた収容所に落ち着く。捕虜の中には、カール・ヤーン、バン・ホーテン、ローマイヤー、ヘルマン・ウォルシュケなどの食肉加工の技術者がおり、この人たちは後々日本人のグルメに少なからぬ貢献をすることになる。
 大戦の終結を迎えて、大正八年(一九一九)捕虜の大半は帰国の途についたが、ヘルマンさんはローマイヤーなどとともに日本に残ることになる。十一年には明治屋に雇われ、もっぱらソーセージやハムの製造指導を行った。独立してからはあちこちのメーカーにも協力した。
 ベーブルースが来日した昭和九年、ヘルマンさんはホットドッグを作って甲子園の観客に売った。日本では初めてのことらしい。ソーセージの普及をねらって銀座街頭での試食会を企画したこともある。
 昭和初期には農村不況対策として畜産振興が叫ばれた。狛江にも東京府連(後に都農業会)の施設が旧野川と六郷用水合流点辺りにでき、仔豚の斡旋や近隣から出荷される牛や豚の解体・加工を始めていた。敗戦後、この施設は民間に払い下げられたが、ヘルマンさんは敷地の一角を借り受け、自営の工場を造り、ハム、ソーセージの本格的製造に乗り出す。後に現在高野の工場のあるところに移り、事業を拡張した。
 彼は大柄でやさしい人。経営者というよりコツコツと働くことのすきな根っからの職人であった。教会でドイツ人牧師ハロルド・エーラさんから群馬県の養護施設小持山学園の話を聞いたことが機縁となり、学園と深い交流を持つようになる。毎月届けたハム、ソーセージは、学園の子どもたちの栄養向上にたいへん役立ったという。また、学園出身者を何人も狛江の工場に迎えている。昭和三十八年、上野駅で倒れ、六十九歳の生涯を閉じた。今は泉龍寺の墓地に静かに眠っている。