昭和41年6月の水害はひどかった。台風四号の影響で野川流域の小足立、覚東、和泉から、さらに岩戸、猪方、駒井の低地に至るまでことごとく水につかった。あふれ出た水で孤立した被害者を救うために機動隊が出動し、ゴムボートを浮かべたり、町役場では宿河原の「川仙」から、多摩川で使う舟を借りてトラックに載せ、狛江中学校の近くまで運んだりもした。
 一番困ったのは汚物の浮上だったという。まだ水洗便所ができていない時代だったから、床下に作られた溜めから汚物が浮き上がり原形をとどめたまま流れてきては床上を漂った。そのため水が引いた柱に汚れが残ったり、消毒薬の散布に役場の職員は大忙しだった。
 仙川通りはまだできたばかりだったが、ニコニコ屋の辺りは腰まで水につかるほどの大水だった。そのため、当時消防団の部長であった栗山安正さんは消防服に身を固め警備かたがた通行人の誘導をしていた。御台橋と大島材木店の間を、勤め帰りの人たちの片腕をしっかりとかかえて、流されないよう、深みに踏み込まないよう、支えながら歩いたが、腰まで水につかった瞬間は特に激しい寒さを感じ、お互いの身ぶるいが通じ合ったという。また、バスに乗り継ぎやっとここまで来た人たちが水を見たとき、女性は腰まで水につかってでも目的地を目指すが、男性の多くは引き返してしまったと当時を回想していた。
 銀行町も大洪水だった。道路上30センチも水がたまっているため、通行中の自動車のはねかす水で商店の窓ガラスが割れたり、ゆっくり走ったためにエンジンが水につかりエンストを起こした自動車が何台もあったという。
 狛江中学校北側の住宅地は特にひどかった。取り付けたばかりのガスメーターが片っ端から冠水し使用不能になったので、ガス会社では復旧のとき地上50センチ以上のところに取り付けたという話を聞いた。